「海底撈月」という役から生まれる様々なイメージを組み合わせて産み出された天江衣というキャラクター

皆さんは真嘉比高校の副将の銘苅さんを覚えていますか?

この永水の会話に登場したこの人ですね。他のコマから彼女はエースで去年の個人戦6位という事もわかっています。今回のインターハイでは塞さんに完封されてしまった為にいいとこなしだった訳ですが、彼女も全国の能力者の1人である事は間違いないでしょう。個人戦での登場に期待したいですね。

さて、今の所は学校名と名字と能力名しかわからない彼女ですが、実はこの情報から推測できる彼女の元ネタじゃないかと思われる説話が1つあります。それは、沖縄の伝統芸能である組踊の1つとしても有名な「銘苅子(めかるしー)」というお話。そのお話のあらすじはこんな感じです。

ある日、銘苅子が農作業の後に井泉で手を洗おうとすると、天女が水浴びをしているのを見かける。彼女の傍らの木には美しい羽衣がかかっていた。彼はそれを隠してしまい、その天女を家に連れて帰り、最終的には妻にしてしまう。
月日が流れ2人の間には3人の子供が生まれるが、ある日子どもが歌っていた子守歌から天女は羽衣の隠し場所を知り、羽衣を探し出して昇天する。
途方に暮れる銘苅子と子どもたちだったが、その後娘が琉球王の夫人となりめでたしめでたし…

多少、組踊とは筋書きが違いますが、このようなお話となっています。日本各地に伝わる羽衣伝説の一つですね。このお話の主人公の名前である銘苅子が、銘苅さんと字が同じである事がわかります。

更に、このお話が伝わる場所は真和志間切安謝村の銘苅原*1という所なんですが、ここは真嘉比のすぐ隣の地名だったりします。つまり、場所もほぼ真嘉比高校があるところと一致する訳ですね。*2

能力のニライカナイは海の底、地の底にある異界なので、天女とはイメージが合わないような気もするんですが、これは多分民俗学者折口信夫ニライカナイに影響を受けて産み出した他界からやってくる神様の概念を表す言葉である「まれびと」からの連想なんじゃないかなーと思います。より直接的に2つを結びつける事も出来そうな気もするんですが、ちょっとまだ自分の力不足で曖昧な部分が多いのでここはとりあえず保留にさせて下さい。もし、誰か詳しい方がいれば情報提供してくださると助かります。
まぁ、海の底の異界といえば多くの人が真っ先に思い浮かべるであろうお話は『浦島太郎』だと思いますが、このお話も元々は連れて行かれた場所は竜宮城ではなく蓬莱山だったので海の底と山の上(天界)って意外と似てるのかもしれないですね。天女と仙女って近い存在みたいですし。
とりあえず今回重要なのは、

    1. 真嘉比高校の銘苅さんは羽衣伝説の天女がモチーフ
    2. その能力は海の底の異界を意味するニライカナイである

の2点になります。で、なんで衣ちゃんと関係ない銘苅さんの話を長々としたかというと、実は彼女は衣ちゃんのプロトタイプなんじゃないか、そう思われるからなんです。それでは、ここからが本題、衣ちゃんについて考えてみようと思います。


最初に、彼女の名前について。これはかなでさんがこちらの記事で明快に解説してくれています。

天江衣・・・苗字と名前から、天の女神である事が丸分かり。
天江⇒天の川、衣⇒羽衣伝説
遊び半分 高鴨穏乃は魔物になれるか?

より厳密に言えば、「天江」は中国語で天の川を意味する言葉であり、それと名前の「衣」が織姫を連想させることから、彼女の名前は七夕伝説から付けられている事がわかります。七夕伝説には幾つかの類型があり、その中の一つが羽衣伝説型なんですね。
そして、彼女の得意技はタイトルにもある通り「海底撈月」です。つまり、海底=ニライカナイと考えれば、2人の名前と能力はほぼ同じものを意味している訳です。ここから衣ちゃんのプロトタイプが銘苅さんでないかという僕の仮説についてはお分かりいただけるかと思います。

ちなみに、3巻においてちぎれたエトペンをハギヨシが縫い直した時に

ハギヨシ素敵滅法!
ペンギンが根堅州国から帰ってきた!*3

というセリフを衣ちゃんが言いますが、この根堅州国は記紀神話に登場する異界の事であり、柳田国男によると根堅州国はニライカナイと同一のものと考えられるそうです。ひょっとしたらこのセリフも元ネタの繋がりを意識したものなのかもしれないですね。


次は「撈月」についてです。まずは、彼女の見た目について。

このコマが一番わかりやすいと思うんですが、彼女の見た目は明らかに『不思議の国のアリス』のキャラクターから生み出されています。後ろのテーブルにいるのは帽子屋に三月ウサギにチェシャ猫に何故かハンプティ・ダンプティ。ほぼお茶会のメンバーですね。そして、衣ちゃんはウサギの耳のようなリボンと大きな懐中時計から白ウサギ、長いブロンドの髪に少女のような愛らしい容姿からアリスの2つのイメージが投影されている事がわかります。
また、後年ルイス・キャロルが語ったところによると彼は白ウサギについてこう述べています。

彼は「アリス」の同属として作られたのか、それとも対比を意図して作られたのか? もちろん、対比としてだ。アリスの「若さ」「勇敢さ」「健康さ」そして「目的に対する迷いのなさ」に対して、「老成」「臆病」「虚弱」そして「神経質な優柔不断さ」を読み取ることができれば、私が彼をどう描こうとしたかが理解できるだろう。
白ウサギ (不思議の国のアリス) - Wikipedia

この「若さ」と「老成」は衣ちゃんにも反映されていて、彼女はとても子どもっぽい姿や行動をするのに、その喋り方だけは妙に古めかしいのもこのアリスと白ウサギという2つの対比するイメージが彼女に反映されているからなんです。これらは全て月のウサギからの連想ですね。


そして、月についてはもう1つ。先ほどの羽衣伝説はこの「撈月」にもかかってきて、これに満月と孤独のイメージが関わるお話と言えば…そう、『竹取物語』ですよね。天の羽衣に満月の夜に昇天、そしてかぐや姫は人の世との別れを悲しむも羽衣を着る事で心を失ってしまう…。このお話のイメージも彼女には反映されてるんじゃないかなーと思います。

このように、衣ちゃんは「海底撈月」という言葉のイメージから生まれるありとあらゆるモチーフを組み合わせて産み出された複合的なキャラクターであると言えると思います。彼女は咲-Saki-のストーリーで最も強いキャラクターの1人ですが、そのキャラクター造形もまた立先生が生み出した最高傑作の1つと言えるんじゃないでしょうか?

*1:ややこしいんですが、こっちは地名の銘苅です

*2:このモチーフにするお話と学校がある場所をわずかにずらす事は咲-Saki-ではよくある事で、例えば宮守は『遠野物語』の舞台ではありますが作品中にその地名が登場する事はほとんどありませんし、他には阿知賀なんかも舞台と地名はわざと別にしてますね

*3:咲-Saki- 3巻第23局[追撃]p.169