赤頭巾ちゃん気をつけて 庄司薫  心にしみこんでいくようなやわらかな文章

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)


>>(これだけは笑わないで聞いて欲しいのだが)例えば知性というものは、すごくしなやかで、何処までも伸びやかに豊かに広がっていくもので、そして飛んだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局は何か大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜僕たちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「本当にこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんていっていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、僕は(すごく生意気みたいだが)僕のその考え方が正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。そして、それと同時に僕がしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。<<


いい言葉だな〜。これだけでこの本を読む価値があったなと思えるくらい。



庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』は1969年に芥川賞をとって大ヒットした作品です。この時代の主な作品を紹介する際には必ず載る作品で、名前だけは知っていたんですがたまたま大学の図書館で見つけたので読んでみました。

感想を一言でいえばみんな言ってることなんですが『ライ麦畑でつかまえて』の日本語版ですね。ほんっとうによく似てる。というか絶対オマージュですね、これ。


話は変わるけど、この小説の中身そのものはもちろん面白かったんだけど、小説の中に出てくるこの時代の描写がまた当時を全く知らない僕にとっては興味深かったですね。

読み始めて数ページでいきなり「サンパ」とか「ミンセー」とか、「ゴーゴー喫茶」とか出てきたのには、なんじゃこりゃあ!!って思いましたもんw
それにもちろんテレビなんかで見たことはあったけど、たくさんの学生が街中でデモ行進してたり、芸術や政治について熱く語っているというのはやっぱり違和感を感じました。
今こんなことをする学生はうざがれるのがおちだもん。

これって日比谷高校に関する記述であるような「インチキ大芝居」の崩壊ってやつなのかなあなんて思います。あるいは「大きな物語」の崩壊とか、ポストモダン化ともいうんでしたっけ?確か。

だから作品の中で主人公は自分のことを「シーラカンス」なんてたとえているけど、この小説の主人公が安田講堂事件で東大受験をあきらめた高校生であるんだけど、まさにこの小説が書かれた時代はちょうど時代のおおきな節目でそういった意味でこの小説はもうこれより前にも後にも生まれ得ないんじゃないかな、と思ったり。(ただ一緒にこの本を読んだ母親いわく作者はもうちょい年代が上なので違和感があるところもあった、といっておりましたが)
そういえばこの本が書かれたちょうど10年後に村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューしたので、この二つの主人公の性格の違いはそのままこの世代間の違いに結び付けられるのかもしれないですね。

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)


さっきも書いたけど母親がちょうど学生の頃にこの本を読んでいたから、当時の昔話を色々と聞けて・・・。母親は団塊の世代のすぐ下の世代なんだけど、ちょうどこの本が書かれた前後を境に色々な変化が起きて(高度経済成長の終焉とか学校群制度とか・・・)学生の意識も大きく変わったんじゃないかと実体験から語ってくれて。
今のみんなが孤独を感じてる社会って多分この頃から形成されてきたのかな〜とは思ったりするんだけど・・・どうなんでしょうかね?