咲-Saki-全国編 第5局「神鬼」感想

世界最大のアニメ雑誌をアピールしているアニメグラフ誌は次号において咲-Saki-全国編を特集するそうで、現在HP上で『ファンが選ぶ名場面ベスト10』 投票を行っています。

アニメグラフ-ビジュアルを読む、目で触れる、特大キャラクター・グラビアマガジン-

投票は2月10日まで。興味がある方は投票してみてはいかがでしょうか。しかし、A2サイズの雑誌って凄いですね…。

という事でちょっと余裕がないので簡易的な更新になりますが、今回もアニメ咲-Saki-全国編を見て気付いた事を書いていきましょう。

姫様についてトシさんが色々と語っていましたね。おおよその事についてはこれまでもブログで何度か書いてきましたが、アニメから咲-Saki-の世界に入った人も数多くいると思うので、ざっとその内容について解説してみようと思います。

まず、トシさんが言っていた「あまのやえたなぐも〜」とは何を言っているのか。これは『古事記』の天孫降臨の一節を読み上げたものです。

天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、…(中略)…竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふるたけに天降(あまくだ)り坐(ま)しき。

書き下しについては角川ソフィア文庫の『新版現代語訳付き古事記』を参照しました。

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

何故トシさんがこの一節を読み上げたのかというと、永水女子があるとされる霧島神宮、そして霧島山が「日向の高千穂」の有力な候補地の一つだから、そして彼女の能力が天孫降臨にまつわるものだからです。
それでは、そんな姫様に降りた神様とは一体何者なのか。これは少しネタバレになってしまうのですが、霧島神宮に奉納されている九つのお面、「九面」の神様の事であると考えられています。九面とは天孫降臨の際にニニギノミコトにつき従った九人の神様を模したお面の事であり、それぞれの神様の名前は以下のようになります。

  • 手力男神(たじからおのかみ)
  • 天岩門別神(あめいわとわけのかみ)
  • 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
  • 伊斯許理度賣命(いしごりどめのみこと)
  • 布刀玉命(ふとだまのみこと)
  • 玉祖命(たまやのみこと)
  • 天児屋命(あめのこやねのみこと)
  • 天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
  • 常世思金神(とこよおもいかねのかみ)

どうやら闘いの最中に姫様が眠っている時には、この九人の神様のいずれかが彼女に憑依しているようですね。また、最初に寝ている時と二度目に寝た時では降りてきた神様も違うものであるようです。

次に「六女仙を従える霧島神境の姫」と言っていましたが、六女仙とは一体何なのかという事について。この用語の元ネタは江戸末期の平田派の国学者によって著された『霧島山幽境真語』と言う書物から採用されています。

参考:近代デジタルライブラリー - 幽冥界研究資料. 第1巻

このお話は霧島山の山奥で仙女たちに出会ったとある男の体験談となっています。「従える」という言葉からわかるように、姫様以外の永水のメンバー4人と後で登場する2人の事を総称して六女仙と呼んでいるようです。つまり、彼女たちは巫女であり仙女でもあるみたいですね。

ちなみに阿知賀編にて登場し、全国編でも4話で姉帯さんのセリフで語られた九州赤山高校の藤原利仙というキャラがいますが、彼女も元ネタの書物『神界物語』によると霧島山に住んでいる仙人だそうです。この2校の関係は気になる所ですね。 

エイスリンとトシさんは神様が憑依した状態の姫様の事を「巫女が鬼になる」と表現しましたが、この理由についてはよくわかっていません。ただし「鬼」というキーワードは今後も何度か登場するキーワードなので是非覚えておいてください。

このシーンでは「これまでマイナスになった事がない」とか「意図して眠る事が出来たのはこれが初めて」とか色々気になるワードが登場しましたが、とりあえずここでは「楽しむ」という言葉が再度強調されているという事だけ言及しておきます。原作ではほとんど語られなかったけれど永水女子も「また一緒に楽しむ」事、「勝利を目指している」事がアニメでは意識して語られていますね。

エイスリンがまこに対して遅れを取った原因としては彼女がまだ麻雀を始めてから数ヶ月故の経験不足が挙げられる事が多いですが、ここではまことの比較から彼女について語ってみようと思います。
エイスリンが自分の思い描く絵を盤上に描くことが出来ない状態って長野県大会決勝戦の次鋒戦のまことほぼ同じ状態なんですよね。

まこは経験がある故に経験がないかおりんの打ち筋に翻弄される一方、経験の浅いエイスリンはセオリーから外れたまこの打ち筋に翻弄される…。中々、面白い対比構造だと思いますが、この後の全国大会準決勝で同じようなシチュエーションに陥った時にまこがどう対処したのかという事を考えると、この場面のエイスリンのミスは単に経験不足だったからという問題ではなく、能力が上手く機能しない状態であったにもかかわらず、それにこだわり続けてしまう…つまり、「自分の意志で打つ」のではなく「打たされている」事こそが問題であったと考えるべきではないでしょうか。ここからも咲-Saki-の中に一貫して描かれているテーマを読み取る事が出来るよね、という話でした。