三尋木咏さんの出身小学校がある不動山に行ってきました


シノハユ第24話「全国 その5」では全国小学生麻雀大会決勝戦の模様が描かれましたがこの24話で初めて三尋木咏さんの出身小学校が明らかになりましたね。
そこでさっそく不動山という地名について調べてみました。

とりあえずgoogleで「神奈川 不動山」と検索をかけてみると最初に出てくるのが小田原市にある不動山というそのものずばりの名前の山が出てきます。それでは咏さんは小学校時代は小田原の山奥に住んでいたのでしょうか?

しかしその場合咏さんが横浜ブロックからの出場であるという事実と整合性が合わなくなります。神奈川県の小学校大会がどの程度細かくブロック分けされているかはわかりませんが、相模原や茅ヶ崎ブロックがあるのに小田原に住んでいる小学生が横浜ブロックに参加するなんて事はありえないはず。という訳でどうやら不動山というのは横浜ブロックにある別の地名らしいですね。そこで横浜にある不動山という事であれこれ調べた結果出てきたのがこちら。

江戸時代までは海に面した高台で、不動山と呼ばれていた。
掃部山公園 - Wikipedia

場所は横浜市西区のみなとみらいを見下ろす高台…これなら横浜ブロックなのは間違いないし咏さんの出身高校である妙香寺にも近い!という事は多分ここで間違いないんじゃない!という事で先日、舞台探訪に行って参りました。

みなとみらいといえばランドマークタワー掃部山公園桜木町駅から坂を上って10分ほど歩いた閑静な住宅街の中にあります。



一見すると何の変哲もない普通の公園なのですが公園内には立派な日本庭園や銅像などがあったりします。桜の名所として春には大勢の花見客が訪れるらしいですね。

そしてこの公園にある銅像こそが、公園の名前である掃部山の由来となった井伊掃部頭です。しかし一般的には日米修好通商条約安政の大獄の当事者として有名な江戸幕府大老井伊直弼と呼ぶ方がわかりやすいですね。
写真にある掃部山の歴史にも書かれてますが江戸時代まではこの場所は不動山と呼ばれていましたが、明治時代に井伊家の庭園となり井伊直弼銅像が建てられた事から掃部山と呼ばれるようになったようです。咲-Saki-にはマイナーな地名が登場する事が多いですが、現存しない地名が出てくるのは珍しいですね。確か佐賀の能古見高校などもそうだった気がしましたが他にあったかな…。

咏さんの出身高校である妙香寺もそうですけど、いずれの地名にも開港にまつわる由来があるのは流石は横浜といったところでしょうか。公園以外に特に何か見るべき名所があるような場所でもないですが、シノハユの舞台探訪で横浜を訪れた際にはついでに掃部山も訪れてみてはいかがでしょうか

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特別展「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ ―『遠野物語』から『海上の道』まで」 | 神奈川近代文学館
ちなみに現在神奈川近代文学館では柳田国男展が開催されています。ちょうどシノハユ1話の舞台にも登場した港の見える丘公園内にあるミュージアムですので舞台探訪のついでにでもよろしければ訪れてみてください。柳田国男の生涯についてとてもよくまとまったわかりやすい展示会だと思います。

 咲-Saki-クイズ Tシャツに描かれてる手牌はどの場面のものでしょう? 解答編

問題編はこちら

って事で、答え合わせです。



まずは清澄からですね。



上から順に中堅戦オーラスの竹井久部長。副将戦後半戦ののどっちのチートイ。大将戦で姉帯さんの先負をかわして嶺上開花和了った時の咲さん。

清澄は咲さんは誰でもすぐわかるとして、よく読み込んでる人なら部長もすぐわかるのかな…。自分は咲さん以外わかりませんでした…。


続いて姫松です。



まずは中堅戦の部長から18000を和了った時の洋榎ちゃん。次に副将戦後半戦の東四局の絹ちゃん。最後に大将戦のクライマックスの末原先輩の倍満ツモ。

姫松は他の学校みたいにわかりやすいキャラがいないので、全体的な難易度は一番高そうですね。


お次は永水女子。



先鋒戦のオーラス、神様がおりた時の姫様。副将戦のはっちゃんの小四喜。そして大将戦の絶一門モードの時の霞さん。

永水の手牌はどれもすごくわかりやすいですよね。麻雀ド素人の自分でもなんとなくどの場面なのかすぐに思い出す事が出来ました。


最期に宮守女子です。



上から先鋒戦のシロ、次鋒戦のエイスリンが夢を描いてた時の手牌、大将戦の姉帯さんの友引ですね。

姉帯さんは誰でもすぐわかるとして、2つ目は唯一のアニメオリジナル。しかも一瞬しか登場しないエイスリンのイメージ上の手牌なので、どの場面かわかった方は本当にすごいと思います。


という訳で、答え合わせは以上になります。みなさんどの位わかりましたでしょうか?自分は半分ぐらいしかわかりませんでした…。というか、麻雀素人の僕がこういった問題を出すのがそもそも間違ってるような…wもっと麻雀に詳しい方ならここが気付くポイントだとか語る事が出来るのかもしれないですね。

 咲-Saki-クイズ Tシャツに描かれてる手牌はどの場面のものでしょう?

咲-Saki-全国編Tシャツなるものが発売されるそうですね。

『咲-Saki-全国編』デザインTシャツが登場です! : Black and White

アニメが終わって一年以上も経つのに未だにこのような公式グッズが出るのはありがたいですね。ところで商品紹介のページ見てみたら「宮守」が「宮森」になってるんですけど…。ま、まぁそれはともかくTシャツのデザインを見てみると裏は各校のメンバーと今年のインターハイのトーナメント表、表はTシャツ毎に異なった麻雀の手牌になってるみたいですね。




…ところで、ふと気になって調べてみたんですが、これらの手牌は全てアニメ咲-Saki-全国編の作中に登場したものでした。さて、ここでちょっとしたクイズです。それぞれの手牌がどの場面のものかわかりますか?ちなみに僕は半分もわからなかったんですが、もしアニメを見直したりせずに全部わかった方はすばら!実にすばら!ですね。

ちなみにいくつかヒントを挙げると

  • 当たり前ですが、Tシャツにはその学校のキャラの手牌が使われています
  • 一人のキャラの手牌が二つ以上使われてるという事はないです
  • 手牌は上から順に時系列に沿ってます


って事で、シンキングターイム。

正解はこちらにまとめてます。

山人という言葉で繋がる宮守と永水

『幽界物語』あるいは『幸安仙界物語』とは江戸末期に書かれた神界へ赴いたとされる嶋田幸安の話を参澤明が記録したものです。このお話の初めに彼が仕えた仙人についての記述があります。

…翌十一日の夜眠り覚る折から暁頃叉昨日逢たる如き神人忽然と来たり供に霊空に乗じ九州の地へ行き赤山に登り、神仙の館へ参り、清浄利仙君と申す仙君に拝啓す、此利仙君と申すはもと仁徳天皇の四十一年癸丑産にして、其後人間に出で候、御名は藤原平次と申してよき官人にてありけるが、…
幽冥界研究資料. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

実はこの本は藤原利仙さんの元ネタが記された書物なんですが、太字の部分を見ればわかるように九州の赤山に住むかつて藤原平次という名前だった清浄利仙君という仙人がモデルだから九州赤山高校の藤原利仙という名前なんですね。ものすごいそのまんま。

ちなみにどうでもいい事なんですが、九州の赤山ってウィキペディアとかだと霧島山と書かれていて永水と九州赤山って同じ場所にあるの!?と思ってたんですが、今回調べてる時に参考にした本にはいずれも阿蘇山って書かれてました。阿蘇と霧島、果たしてどちらが正しいのでしょうか…。ただ阿蘇山だと九州赤山高校は熊本県にある事になってしまうので、少なくとも立先生は霧島山に九州赤山高校があると想定しているのだと思います。

この『幽界物語』は最初の方では参澤明が嶋田幸安から聞いた話を一問一答形式でまとめてるのですが、途中から清浄利仙君や平田篤胤の養子である平田鐵胤もその問答に参加するようになるようです。もちろん参澤明も平田国学の門人の一人でした。そして前回の記事で紹介したように『霧島山幽境真語』も平田篤胤が八田知紀に頼んで善五郎が仙界に訪れた話を聞き取りしてまとめたものです。つまり、永水と九州赤山の仙女の元ネタにはどっちも平田篤胤が深く関わってる訳ですね。
さて、それでは何故平田篤胤や彼の門下生たちは何故日本各地の仙境の体験談を探し求めたのでしょうか?

まず、平田篤胤は彼が師匠として尊敬していた本居宣長と同じく儒教や仏教の影響を受ける前の日本古来の信仰を探ろうとする古神道(復古神道)を提唱します。
ただし篤胤が本居宣長と異なったのは、宣長が不可知とした死後の世界について積極的に探究した事です。『霊能真柱』などの中で平田篤胤は幽冥界と呼ばれる古神道独自のあの世の概念を生み出します。その後、篤胤は天狗に連れ去られて彼の下で修業を行ったと主張する寅吉という少年と出会います。寅吉が語る異界は篤胤の考える幽冥界と驚くほど一致していてその結果、篤胤が考える幽冥界は単なるあの世ではなく私たちの住む世界と重なり合った天狗や山の神などが住む不思議でより大きなスケールの世界へと変化していきます。
寅吉との出会いの後、篤胤は玄学と呼ばれる中国の道教老荘思想に深く傾倒していきます。そして、最終的には平田神道の中核に玄学が位置づけられるようになり、当然の事ながら幽冥界も日本独自の異界ながら本来は中国発祥のはずの仙人なども住む世界であると考えられるようになる訳です。つまり、『霧島山幽境真語』も『幽界物語』も山奥で出会った相手が仙人であるのは、平田篤胤のこのような幽冥界のイメージが基になっているからなんですね。*1
…自分でも未だによく理解出来てないのですごいわかりづらいし色々と間違ってそうな説明だと思うんですけど、とりあえず国学者が残した書物に仙人が描かれてるのはこういった理由なんだなーって事をなんとなく解かっていただけたらそれで充分です。いずれにしろここで神社の巫女と山の奥に住む仙女という一見全く関係がないように見える2つの要素が繋がってくる訳です。


さて、幽冥界と一言でいいましたが、そこには神集岳神界や仏仙界などといったとてもたくさんの異界が存在するらしいのです。ただし、『霧島山幽境真語』や『幽界物語』など普通の人が仙人の元を訪れたお話はいずれも幽冥界の中でも山人界(天狗界)と呼ばれる場所であるといわれています。山に住む生き物たちの世界だから山人界、そのまんまですね。そもそも仙人は人偏に山と書きますしね。とすると、仙女は山女と表現しても差し支えない訳で…あれ、山女ってどこかで聞いたような…?

そう、姉帯さんの元ネタですね!*2と、なんだかすごい強引に繋げた感じですが、ここからは平田篤胤が産み出した山人界の仙女と柳田国男が産み出した山人こと山女が深くつながっているのかを見ていこうと思います。

『妖怪談義』に収録されているお話の中に「天狗の話」という柳田国男の初期の論文があるのですが、この中で柳田はこのように語っています。

ただここに少しばかり、私の独り心づいていることがある。昔から殊に近代に於て山中の住民が堅く天狗現象なりと信じているものの中で、どうもそうでなかろうと思うことがあります。山民は幽界を畏怖するの余に、すべての突然現象、異常現象を皆天狗様に帰してしまう。しかしその一部分は魔王のあずかり知らぬものがある。この濡衣を乾せば魔道の威光はかえってたしかに一段を添えるであろうからちょっとその話をしてみたい。それは外でもないが日本の諸州の山中には明治の今日といえども、まだわれわれ日本人と全然縁のない一種の人類が住んでいることである。

ここで柳田がいう天狗には先程述べた山人界(天狗界)も当然含まれています。柳田自身は篤胤などが収集した天狗界の体験談について

又幽冥に往来したという人の物語、これが史料としての価値はあまり高くない。神道寅吉すなわち高山平馬の話、又は紀州のある学者の筆記した少年の談話*3の類は五つも七つもあるけれども、その間に何ら共通の点がなく、一つの世界の話とはいかにも受け取られぬ。

と否定的な立場をとっている訳ですが、ここで柳田は篤胤が提示した幽冥界を拒否する代わりにこれらの話の背後に山奥に住む先住民である山人(山女)という別の存在を見出している訳ですね。このように姉帯さんの元ネタである山女の誕生した経緯を詳しく見ていくと、実は永水の六女仙と宮守の山女は同じような伝承を別の角度から見たものに過ぎない事がわかります。つまり、両者はある意味ではほぼ同じ存在なんですよね。*4

このように考えていくと、立先生がブログで「ちょっと特別な場所」と表現した霧島神境に何故宮守女子のメンバーが呼ばれたのかという疑問もすっきりと解けるのではないでしょうか。もちろん、咲-Saki-のお話と幽冥界や山人を同列に語る事は出来ませんが、少なくとも他の学校とは違って何故永水と宮守だけが大会が終わった直後に一緒に海水浴に行くほどに仲良くなったのかという理由がここに隠されていたと推測するのもあながち的外れではないと思ったり…。って、やっぱりちょっと強引ですかね?w

柳田国男と平田篤胤と咲-Saki-
昔、平田篤胤柳田国男の繋がりについて書いた記事。今見るとかなり根拠がいい加減…。
盛岡にある三ツ石神社から臼沢塞と薄墨初美について読み解いてみる
これも宮守と永水の繋がりを指摘した記事。宮守と永水はセットでキャラクター造形が考えられているってのが持論です。
姉帯豊音と山女について
永水の六女仙の元ネタである『霧島山幽境真語』のご紹介

  • 参考文献

『神仙道の本』学研
古神道の本』学研
『平田神道の研究』古神道仙法教本庁 著:小林健
『妖怪談義』講談社学術文庫 著:柳田国男
平田篤胤の神界フィールドワーク』作品社 著:鎌田東二

*1:ここで誰もが不思議に思う事は、篤胤は仏教や儒教を激しく攻撃していたのに何故中国の思想である玄学に深く傾倒しその思想を積極的に取り入れたのかという事ですよね。ここが面白いところなんですけど、篤胤は仏教や儒教を激しく攻撃する一方で自分の考えを正当化するのに道教に限らず、外国の神話や文献を何の躊躇いもなく利用しました。「本である我が古伝に欠落している叡智を、末である外国古伝の精髄を採取する事で補う」というのが篤胤の方法論だったらしいのですが、彼には日本が世界の中心であるというゆるぎない確信があったからこそ道教キリスト教などの文献を引用してもそれが結果的に日本古来の信仰を解き明かすものであると考えていたのですね。

*2:姉帯さんと山女の繋がりについては以前書いたこちらの記事を参照してください。

*3:『幽界物語』の事

*4:柳田は篤胤の言説には一貫して否定的な立場を採っている一方で、山人や祖霊の考え方には篤胤の幽冥界の影響が随所に見てとれます。これは、柳田がかつて歌人であった頃に桂園派という和歌の流派に属していた影響が大きいようです。ちなみに、『霧島山幽境真語』を著した八田知紀もまた桂園派の著名な歌人でした。実はこんな所にも永水と宮守の繋がりがあったり…

永水の六女仙の元ネタである『霧島山幽境真語』のご紹介

遅ればせながら皆さまあけましておめでとうございます。昨年の途中からめっきりブログの更新頻度も落ちてしまいましたが、今年もこんな感じにたまーにブログ更新していくんじゃないかと思うのでよろしくお願いいたします。

立先生の日記が更新されて新たな設定が幾つか明らかになりましたね。興味深い点はいくつもあるのですが、やはりその中でも永水に関する設定はとても衝撃的なものでした。永水に関する設定で重要なポイントは

  1. 霧島神境と神境の海はこの世界とは異なった特別な場所
  2. 神境には色々な山から辿り着く事が出来るけど入口の山と別の山へと出る事は出来ない

の二点になりますが、この内の1つ目のポイントである霧島神境が通常の世界とは異なった特別な場所であるという点については、作中にも出てくる「六女仙」というキーワードの元ネタである『霧島山幽境真語』を読んでみる事で多少なりともヒントが得られるのではないかと思うので、その原文を簡単に紹介しようと思います。
内容については既に簡単にジャファーさんが紹介してますけど、宮守の『遠野物語』と違ってこっちは滅多に読む人いないだろうし近代デジタルライブラリーはすごい読みづらいしって事で。
なお、原文の現代語訳というか解説っぽいものも一応書いてますけど自分の古文レベルは高校卒業して以降ずっと錆びついたままだったので間違えてる箇所が幾つもあると思います。もし何かしらのミスに気付いたら指摘してくれるとありがたいです。

霧島山幽境真語』は江戸末期に霧島山女仙たちの元へ訪れたという善五郎の体験談を八田知紀が聞き取りしてまとめた一種のフィールドワークのようなものとなっています。
八田知紀は著名な国学者である平田篤胤に頼まれてこの聞き取りを行ったのですが、彼は何十年も前に善五郎の話を風の噂で耳にして詳しい内容を知る事をずっと熱望していて、遂にこの『霧島山幽境真語』が篤胤の元へ届けられた時にはこの本を神棚に祀るぐらい大喜びしています。
何故、彼がそんなにこのお話を聞きたがっていたのかはまた別の機会に語るとしてその平田篤胤の序文の後に霧島山幽境真語』の本文が始まります。

拾六歳になりし時獨り明礬山を夜あるきしけるに身のたけ七尺ばかりなる山伏法師の如きもの前をさへぎりてたてり
善五郎云そこもとはなにものそたとひ變化のものなりとも我をばよも喰ふことはえあらじとて打まもり居たれば即かきけちて失ぬ
其ののちのちも同じさまにものせしこと三年の間に六たびまでありけるを人にもらすべき心露おこらざりしとなり

これは六女仙たちと出会う前のお話ですが、善五郎が山の中を一人歩いていたら目の前をいきなり身長が七尺もあるかと思われる山伏のような異形のものが目の前に現れるという事が三年間に六回もあったそうです。一尺は大体30cmですから2mを優に超える大男ですね。姉帯さんより大きい。
けれど、こんな大男がいきなり目の前に現れたというのに「まぁ、これがどんな妖怪であったとしても流石に自分を取って食べてしまう事はないだろう」と考えて逃げる事もせずにその山伏をただ見つめていただけでなく、その出来事を誰にも語る事のなかったという善五郎はかなりの大物ですね…。六度も目の前に現れたとか、この山伏は霧島山に連れて行く男を見極めるテストでもしていたのでしょうか。もし善五郎がこの山伏から逃げ出したりこの出来事を誰かに話していたとしたら、その後彼は霧島神境を訪れる事は出来なかったのかもしれません。

かくあやしき事六度ありてそれよりいくほどもあらぬに夏のよの暁がた端ちかく居ねふりてありけるを外より善五郎が名をよぶものありけり…(中略)…
五十ばかりの男我は山神の御使なりそこを召すべきことありて迎につかはし給へればとく我しりへに付て來るべしといふままに從ひて出行ほど白晝のやうにて大路ありけり
一町もゆかぬやうにて大門のあるを入もてゆけば檜皮ふきなる家のいと清くひろなるに十七八ばかりの女六人あり
いづれか主なりとも見分かたくみな髪ながくかき埀りきよらにそうぞきたるがあひ迎へたり

その後のある夏の明け方頃、善五郎は山の神の使いを名乗る男に連れられて霧島神境を訪れる事となります。神境の館の中には17,8歳ほどの髪の長く美しい女性たち、六女仙が出迎えてくれました。年齢が17、8歳ほどという事はちょうど霞さんたちと同じ年齢ですよね。
また、六女仙の描写については他にも「かほかたちのうつくしきこといはんかたなく世にあるたぐひにあらず」とも書かれているように全員がみなとても美しい女性であるという事も同様です。
他にも六人の中で誰が主人なのかはわからなかったと書かれてますが、これは姫様が六女仙を従えるという永水の図式にも当てはまりますね。

また明け方のはずなのに外は昼間のように明るかったり100メートルほど歩いただけでいきなり目の前に大きな門が現われたりと、霧島山幽境真語』の中で神境は明らかに私たちがいる世界とは異なった特別な場所として描かれています。
実はこの後も善五郎は何度も神境を訪れるんですが毎回同じ場所から神境を訪れている訳ではなく神境から二十里も離れた善五郎の故郷からも一晩のうちに神境との間を往復する事が出来たそうです(実家以外の場所からは神境に行く事は出来なかったみたいですが)。永水の場合は世界各地の山から神境へと入る事が出来るみたいですが、このお話では特に山が重要なポイントとなる事はありません。ただ、霧島山に限らない色々な場所から神境を訪れる事が出来るという点は一致していますね。
また神境を訪れる善五郎は他の人からどう見えていたのかという事なんですが

さて行んとする前かたは眼色かはりよろづ常やうならぬことのあるを人々も目につけは出行あとをとめて試るものもありけれど
一町ばかりゆくとみゆるほど影もなくなりしとぞ(ゆかむする前かたのことみつからはなにの覚えもなしとぞ)

このように善五郎さん、自分では何も覚えていないそうなんですが明らかにワープしちゃってます。善五郎以外にも仙境を訪れたという人のお話は江戸末期から明治にかけて幾つかあるんですが、大体において他の人が近くにいたとしてもいきなり目の前から消えてしまうみたいですね。この辺りも永水の神境が特別な場所であるという事にも繋がりますし、またはっちゃんがワープして試合会場に現われた事などにも通じるかと思います。

後はこれも既にジャファーさんが言及してますが本文に登場するお菓子の描写について幾つか。

茶と菓子を出してあしらひ給へり(のちのちのたびにもかならず茶と菓子とのみなり)

神境では必ずお茶とお菓子のみで普通の食事が出される事は一度もなかったそうです。ここら辺は控え室で天ぷらそばを食べていた永水とは異なりますね。あえて言うならいつも黒糖を食べてるはるるが関係あるかな?

また善五郎さんは色々なモノを仙女たちから頂いていたみたいでその中にはたくさんの薬もありました。その薬もまた「其くすりは白砂糖と真珠丸のごときもの」で「味ひ甘し」と書かれており、お菓子の一種が薬である事が窺えます。
つまり、はるるは黒糖ばっかり食べてるけどあれは本当は薬の一種でとても身体にいいものだから何の問題ない訳ですね!

ちなみに善五郎さん、仙女から頂いたこの薬やお金なんかはみんな他人に分け与えてしまって八田知紀が訪れた時には全く手元に残っていない状態だったそうです。つくづく大物ですね、善五郎さん。この善五郎の無欲さやお話の中で描かれる神境の館の描写はマヨヒガとかぶる点も多々あって永水と宮守の繋がりを考える上では気になる点ですね。

とまぁ、こんな感じで咲の本編や今回立先生の日記で明かされた永水の設定を考える上で参考になりそうな箇所をいくつか紹介してみました。もし全文に興味がある方は本朝神仙記伝. 下之巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション平田篤胤全集などに収録されているはずなので読んでみてはいかがでしょうか。


ところで、『霧島山幽境真語』のお話は神境を訪れた善五郎に対して六女仙たちが親子の縁を切って神境に永遠に留まるよう求めるのに対して、善五郎はその求めに応じる事なく元の世界に戻った為にその後は神境へ決して訪れる事は出来なくなった、というラストで締めくくられます。仙女たちとのハーレムエンドを拒否して慎ましやかな一生を送った善五郎さんってほんっっとうに大物ですよね。
みなさんは永水のメンバーと一生一緒に暮らせる代わりにこの世界に二度と戻る事が出来ないと言われたらどのように答えるでしょうか?

隠れ念仏から永水女子の設定の根源を探る

16世紀中ごろから西南戦争終結する明治10年ごろまで鹿児島県を中心とした旧薩摩藩旧人吉藩では浄土真宗一向宗)の信仰が禁じられていました。何故この二つの藩だけが信仰を禁じられたのかについては諸説あるのですが、その弾圧は過酷を極めたので、それを避ける為に彼らは講と呼ばれる秘密組織を作って陰ながらに一向宗の信仰を続けました。そんな人たちや集団の事を「隠れ念仏」と呼びます。

隠れ念仏の人たちは藩の監視の目からは隠れる一方でこっそりと浄土真宗の本山である京都の本願寺との繋がりは保ち続けていました。弾圧を受けながらもあくまで教義としては正統であり続けようとしたのですね。
ちなみによく似た言葉として「隠し念仏」と呼ばれるものがあるのですが、こちらは一般的には浄土真宗の中でも異端扱いされる秘密主義的な信仰の事を指し、岩手県を中心とした東北地方のものが特に有名です。隠れ念仏隠し念仏は論文や本の中でよく比較されます。隠れ念仏が鹿児島で隠し念仏が岩手…咲-Saki-ファンとしてはこの二つの県は別の意味でも気になる所ですよね。

そんな薩摩藩一向宗への弾圧ですが19世紀の天保年間に入ってから特にひどくなりました。その理由としてはちょうどこの時期に薩摩藩の経済的困窮が極まった事により、一向宗の信徒が大量のお金をお布施として本願寺に送っている事がこれまで以上に問題視されるようになった事が大きな要因らしいのですが、この時期から明治初めの廃仏毀釈という弾圧の嵐の中で*1数多くの人々が信仰の改宗を迫られ、拷問を受け、命を落としてゆきました。

このような弾圧が特に過酷だった時期に、カヤカベと呼ばれる隠れ念仏の一派であると考えられながらも他とは全く異質の信仰を持った新たな宗教集団が誕生します。…という事で前置きが長くなりましたが、今回はこのカヤカベが永水女子の設定のモデルとなっているのではないかという仮説について書いていこうと思います。


カヤカベを信仰する人たちは霧島市の旧横川町と旧牧園町の一帯に住んでいます。ちなみに元大関の霧島関(現在の陸奥親方)がこの辺りの出身だそうですね。先程も書いたように一般的な隠れ念仏の一派は弾圧を避けながらも常に本願寺との繋がりを持ち続け、教義としては常に正統であろうとしました。しかし、カヤカベの人々は本願寺との繋がりを一切絶っただけでなく、自分たちの事を「牧園横川連盟霧島講」と名乗り*2、他の人に自分たちの宗教の事を聞かれたら「私たちは霧島神宮の氏子である」などと答えるのだそうです。

もちろん、浄土真宗の信徒である事が明らかになれば弾圧をうける訳ですから、他の隠れ念仏の人たちも表面的には自らの信仰が浄土真宗以外の別の宗派であるかのように偽装する訳ですが、カヤカベの面白い所はそれが単なる偽装に留まらずに彼等の教義の中に深く根付いていて本来の浄土真宗の信仰とは全く異なったものへと変質してしまっている、という点にあります。
彼らは極めて秘密主義的な集団であり、ほとんどの隠れ念仏の人々は弾圧が収まった明治以降は隠れる事をやめて一般的な浄土真宗の信徒となる訳ですが、カヤカベの人々はその後も自らの信仰について外部の人間にはほとんど公にはしませんでした。カヤカベを信じる人々が世間に注目されるようになったのは第二次世界大戦後、給食の時にどうしても牛乳を飲もうとしない*3子供がいた為に不思議に思った担任が親御さんに連絡をとった事がきっかけだそうです。*4


このように非常に独特の信仰を持つカヤカベですが、ここからは永水女子の設定との共通点を挙げながら、カヤカベについてより細かく調べてみましょう。

まず、つい先程も書いたようにカヤカベの人たちは自らの事を「霧島神宮の氏子」であると名乗ります。そして永水女子のメンバーが登場する背景にはこれまで何度も霧島神宮が使われており、彼女たちはそこに住む(?)巫女であるようです。どちらも表向きは。
しかし、実態はカヤカベの人々は単なる氏子などではない極めて秘密主義的な信仰集団ですし、永水女子のメンバーも単なる巫女でない事は作品内の様々な描写から明らかです。それではそれらの描写の具体例を見ていく事にしましょう。

初美「実は本家の方からお呼びがかかったので霧島神境に行くことになったんですよー」
霞 「あぁあの噂の姫様がいらっしゃるという…神社みたいな所…?」
初美「神宮もいいですが神境はあそことはまた違ってですね、山の中にある隠れ里みたいな所なんですよー」*5

このセリフから彼女たちが住んでいる神境という場所はほとんどの人は知らない隠された場所である事がわかります。という事はどうやらはっちゃんがいう本家とはカヤカベ同様、秘密結社的な存在でないかという事が推測されます。神宮は霧島神宮の事でしょうね。

また、小蒔ちゃんは「六女仙を従える霧島神境の姫」*6であり、彼女は9人の女神を宿し使う*7シャーマンである事が明らかになっています。
更に霧島山は古くから修験道の盛んな場所としてよく知られており、明治時代の神仏分離令が発令されるまで霧島神宮は西御在所霧島六社権現と呼ばれる霧島山信仰や修験道の中心的存在でした。1期のアニメの最終話で姫様が麻雀卓に突き刺した天逆鉾なども元々は修験者の信仰によるものではないかと考えられています。

他にも悪石島出身のはっちゃんや喜界島出身のはるるのように、現在判明している永水女子の小蒔ちゃん以外のメンバーの出身地は鹿児島本土ではなく南西諸島です。そして何故かはっちゃんがボゼをかぶっていたり、神境の鳥居に悪石島などのトカラの一部の島にしか存在しない鋸歯紋という模様がつけられていたりと、どうやら神境の人々は意識的に南西諸島の文化を取り入れている節があります。

つまり、永水女子のキャラクターの背景には神道修験道、シャーマン、仙女、南西諸島の文化といった実にたくさんの要素が含まれている訳ですね。それでは次にカヤカベの教義と歴史について詳しく見ていく事にしましょう。


カヤカベの始祖は宮原真宅と呼ばれる江戸時代初期の人物です。彼は元々は山伏であり神道にも通じていたのですが、京都の本願寺で修行して浄土真宗に帰依し「宗教坊」という名前を与えられます。薩摩に戻った後は地下で布教活動を続けるのですが、最終的に役人達に捕まって処刑されてしまいまいました。その後、彼の弟子のひとりが教祖となって後を継ぎ、その後も薩摩藩の弾圧から身を隠しつつ信仰を続けていきます。この時点ではカヤカベという名前もまだなく、彼らはあくまで隠れ念仏の一派に過ぎませんでしたが、この時既に修験道の要素が教義の中に入り込んでいたのですね。

月日は流れて江戸時代末期に教祖となったのが吉永親幸(市蔵)です。冒頭にも書きましたが、彼が教祖となった江戸時代末期は薩摩藩の弾圧が特に過酷な時代で何万人という人々が捕えられ弾圧を受けました。このような時代背景の中で親幸はこれまで続けてきた本願寺との繋がりを絶ち、その信仰の形態を変化させていきます。彼の手によって現在のカヤカベという宗教集団が誕生する事になるのですが、それではその信仰がどういったものなのか幾つかの書籍から引用してみたいと思います。

市蔵は、自らを善知識と呼び、一向宗の教えに霧島山岳信仰をとり入れ、仏教と神道が混在した独特のかくれ念仏集団「カヤカベ」をつくり上げた。*8

親幸は、阿弥陀如来から伊勢神―霧島神―聖大明神*9の垂直回路によりお知らせを受けている。…(中略)…親幸は霧島神に導かれて極楽の世界に行き、その様子を見せられたという。信徒たちには、親幸が霧島権現に可愛がられて「カヤカベ教」を授かったのだと言い伝えられている。*10

要するに本願寺とは縁が切れちゃって自分たちはこの土地に縛り付けられてどこにも逃げる事は出来ないけど、霧島山はお伊勢様にも浄土にも繋がってる有難い場所だから大丈夫だよ、って事ですね。

更に親幸は優れたシャーマンでもありました。彼は自らと「杓取」と呼ばれる六人の巫女を中心としてカヤカベという教団を発展させ、運営していきます。*11また、

高取正男カヤカベ教」の「シャクトリ」による「新口寄せ」は、南西諸島のユタによる「マブリワアシ」と同種、同系統のものとみている。…(中略)…このように、霧島山麓には、南西諸島から薩南諸島につながるシャーマニズム文化が底に横たわっていることが分かってくる。*12

このようにカヤカベのシャーマニズムは南西諸島のものと非常につながりが深い事も明らかになっています。

以上の事から永水女子のキャラクターの背景にある神道修験道、シャーマン、南西諸島の文化といったものがカヤカベの教義にも含まれている事がおわかりいただけたかと思います。更に、姫様とそれに従う六女仙という構図が、親幸と杓取と呼ばれる六人の巫女という構図とちょうど対応している事も明らかですよね。
加えて言うと親幸より後はカヤカベのトップは世襲制となります、つまり親幸の血筋が重要視されている訳です。また霞さんのお祖母さんの「分家の中でもあなたが一番姫様に血が近い」*13というセリフからも推測されるように永水の巫女もまた血筋というものが重要視されている事が窺えます。これもまた共通点の1つですね。

最後に六女仙について。霧島山にいる六人の仙女というお話は江戸末期の『霧島山幽境真語』という書物に書かれています。この『霧島山幽境真語』について民俗学者である谷川健一は『魔の系譜』という本の中で以下のように触れています。

さて、さきに篤胤の霧島山幽境真語』の中の話がカヤカベ宗と関係があるのではないか、と私は述べたが、それは次のような理由からである。市来郷の善五郎が霧島へいくには、西南麓の牧園や中津川の道をとおらねばならぬが、その一帯は、カヤカベ宗といわれる秘密宗教が息づく部落なのである。善五郎はふとしたきっかけでカヤカベの信者のオヤの家とつながりをもち、歓待を受けたのではなかろうか。

このように六女仙のお話がカヤカベから生まれたのではないかという仮説があるならば、カヤカベをモデルとした永水女子のメンバーが巫女にも拘らず六女仙を名乗っている事に何の疑問点もなくなりますよね。*14


という事で非常に長くなってしまいましたが、結論としてはカヤカベの大元である浄土真宗要素こそ見当たらないものの、永水女子の設定にカヤカベの存在が深く関わっている可能性はかなり高いと言って間違いないのではないかと思います。宮守女子に比べて永水女子の設定って色々混ざっていてわかりづらい印象だったんですが、カヤカベという霧島の地に存在する非常にユニークな宗教を通じて見るときちんと筋が通っているんですね。

参考書籍
隠された日本 九州・東北 隠れ念仏と隠し念仏 (ちくま文庫)
隠れ念仏と救い―ノノサンの不思議・霧島山麓の民俗と修験 (みやざき文庫 58)
無縁と土着―隠れ念仏考
魔の系譜 (講談社学術文庫)
薩摩のかくれ念仏―その光りと影

*1:鹿児島県は廃仏毀釈が日本全国の中でも特に激しかった地域で一向宗はもちろん全ての宗派の仏教寺院が激しい被害を受け、一時的に鹿児島県に仏教寺院が一つもなくなるという事態にまでなりました。ただ、その後に浄土真宗の人々の積極的な布教によって現在では江戸時代とは打って変わって鹿児島県の人々はほとんど浄土真宗の信者となったそうです。歴史の皮肉を感じますね。

*2:カヤカベは外部の人々の俗称です。なぜそのような名前がついたのかについては、薩摩藩の弾圧を避ける為に本尊を萱壁の中に隠していた、ただ萱壁に向かって礼拝していたなど幾つかの説がありますがはっきりした事はわかっていません。

*3:本によっては牛乳ではなく鶏肉を食べようとしなかったと書かれている

*4:カヤカベの人々は多くのタブーを持っていて牛乳や肉、魚などといった食べ物は日によっては食べる事を許されず、特に鶏肉を食べる事は厳禁との事。

*5:咲-Saki-全国編BD1巻初回限定盤特典スペシャルコミックp.18

*6:咲-Saki-9巻第74局[神鬼]p.50

*7:咲-Saki-10巻第95局[形代]p.187

*8:『薩摩のかくれ念仏―その光りと影』p.47 かくれ念仏研究会編

*9:牧園の地に祭祀されている土俗の神様の事

*10:隠れ念仏と救い―ノノサンの不思議・霧島山麓の民俗と修験』p.35 森田清美

*11:『無縁と土着―隠れ念仏考』p.245 米村竜治

*12:隠れ念仏と救い―ノノサンの不思議・霧島山麓の民俗と修験』p.75,76 森田清美

*13:咲-Saki-10巻第95局[形代]p.187

*14:この情報については、以前にブログのコメント欄にてアルカ茄子のジャファーさんより情報提供を頂きました。というより、カヤカベについて調べてみようと思ったきっかけがこのコメントだったんですよね。この場を借りてお礼申し上げます。

ころたんの名前の呼び方について


先日の某所での話題が面白かったのでメモとしてまとめておきます。既にご存知の方も多いかもしれないですが、ころたんが他人を呼ぶ時はほとんどの場合カタカナで名前が表記されます。どうしてカタカナなのかはわかりませんが、のどっちの事をノノカと呼ぶころたんの事ですしちょっと舌足らずなころたんの喋り方を表現したものなのかもしれないですね。畢竟とか塵芥とか神算鬼謀とか難しい言葉遣いはたくさん知ってるころたんなのに名前はすらすら言う事が出来ないなんてかわいいですね。

ただ、この設定はわりかしブレがあって初期は透華や原村と漢字呼びしていたり最近でものどかやしずのを平仮名呼びしたりとちょくちょく間違えてる事があります。ただ、しずのは他に呼んでるシーンがないのでわかりませんがほとんどのケースでトーカやノノカと呼んでいるので、ころたんが他人をカタカナ呼びする事は間違いないみたいです。

そんなころたんがただ一人だけ一貫して名前を漢字で呼ぶ相手、それが咲さんです。
大将戦の間はころたんは咲さんの事を清澄や清澄の嶺上使いと呼んでいたりしたのですが試合後に彼女は自分から咲さんに名前を尋ねてその後はずっと漢字で咲さんの事を呼んでいます。これは自分を孤独から救ってくれた特別な存在として咲さんを認識しているからこそ他とは区別した呼び名を使っているという事なんでしょうね。

ちなみに二人称代名詞だとこいつだったりおまえだったりころたん中々きつい呼び方をします。特に大将戦では咲さんの事は清澄や嶺上使いと呼んでるのに池田はほぼ一貫しておまえ呼ばわり。咲さんも上級生をちゃん呼びしてひどいけどころたんも大概ですねwけどきっと今では仲良くなって池田の事もきちんと名前で呼んでいるのでしょうね。